![]() | |
「五體字類」の編著者である法書会とは | |
法書会は、日本の書道の発展向上を期して明治四十四年に毎月一回「書苑」と題する書道専門の冊子を発行することをもって始まりました。当時超一流の学者、名士からなり、事業主は西東書房創業者の七條愷(しちじょう・やすし)。法書とは法帖のことで、法書会は文字通り書道を研究してその向上発展を目的としています。会約には、その事業として「書苑」を発行するとともに、和漢名家の真蹟や拓本、刊本等書道界に有益と認めるものを出版することが挙げられています。法書会には十数人の幹事がおり、幹事は編集、会計などを分担し、さらに幹事とは別に若干の編集顧問がいました。「五體字類」を校閲した高田竹山、後藤朝太郎は幹事で編集を担当し、「五體字類」の題字を揮毫した日下部鳴鶴(くさかべめいかく)は法書会の顧問でした。 | |
「五體字類」出版の経緯 | |
法書会メンバーから、その種のものがあれば便利だという発案があり、それをきっかけとして法書会の名のもとに編集作業が進められました。 資料は主に西東書房で出版していた幾多の法帖、碑版の拓本が用いられましたが、篆書、隷書、及び楷書の正体を示すための五経文字や石経文字などは中国の出版物から法書会メンバーの見識により採取されています。 |
|
ここに、楷・行・草・篆・隷の漢字の五体を古名跡から採取し、かつその正俗をも明らかにする画期的な字書ができあがり、大正五年に西東書房が初版を発行いたしました。 |
|
「五體字類」は時代と共に歩む | |
親文字は日常使用するのに適切なものに限定し、初版で約4,500字、改訂第三版で5,161字となっています。出版当初の広告文の中には、「一般学生は勿論、会社、銀行などにおいて事務を執る者も亦必ず一本を懐中するの要あり」とあり、専門の書家だけでなく、広く一般の人々が備えるべきものであることが特色となっています。 |
|
こうした当初からの出版方針を受け継ぎ、時代の流れと共に変化する漢字の使用に対応すべく、改訂を重ねてまいりました。そして今回すべての常用漢字と人名用漢字、その他21世紀の現在における日常使用頻度の高い漢字を網羅した改訂第三版を出版する運びとなりました。正に「五體字類」は時代の要請に応え、時代と共に歩む書体字典の決定版といえます。 |
|
鳴鶴(メイカク)老人とは | |
明治書道会の第一人者である日下部鳴鶴(くさかべ・めいかく 天保九‐大正十一年・1838-1922)のことです。 | |
日下部鳴鶴は法書会の顧問であり、法書会編纂の「五體字類」の題字を揮毫しました。その理由で「鳴鶴(メイカク)老人署」となっているわけです。 |
|
高田竹山 | |
文久元年(1861年)五月九日に東京の牛込に生まれ、昭和二一年(1946年)十月二十四日に東京世田谷の成城にて逝去。名は忠周(ただかね)、字は竹山または未央学人。漢字の原義・成立を説明する学問である説文学の大家。 |
|
当初書家を志し、書塾を経営していましたが、明治十八年以降、内閣印刷局に奉職し、紙貨幣、公債、証書等の文字の書写、揮毫を担当し、その傍ら局内蔵書の研究整備を行ない、その成果を次々と著書にまとめていきました。 |
|
精力絶倫、資性謹厳で、著書に「古籀篇」百巻、「朝陽閣字鑑」三六巻(後に補正して「補正朝陽字鑑」、簡略版は「朝陽字鑑精萃」)、「漢字詳解」三巻などがあります。また、膨大な著作に加え、記念碑、墓碑銘などに多くの墨蹟を残し、書、文人画、漢詩なども高く評価されています。 |
|
尚、「朝陽閣」とは内閣印刷局の別称で、竹山が在職中そこでの資料をもとに成した篆書字典ゆえに「朝陽閣字鑑」と名付けられました。 |
|
「西東書房」の「西東」とは「西洋と東洋の意」。 | |
創業者の七條愷が金属板写真製版の話を聞いて出版を決意し、明治二十六年に創業しました。写真であれば「書」には最適、英文のスペルの誤植も避けることができます。この方法は凸版に対して平版ですが、「金属板」と呼ばれました。 |
|
この方法で、「西洋」のものと「東洋」のものの両方を出版するということで「西東書房」と命名しました。 | |
西洋のものとしては、手始めに「ガウスの対数表」を出版しましたが、36ケタもの対数表の場合活版印刷では大いに誤植があり得、数学においては誤植は致命的です。しかし写真ならこのような問題はなく、出版と同時に大好評となりました。 |
|
ところが「万国出版協定」により、アメリカからすぐにクレームがつき、以後書道図書専門になり、今日に至っています。 |
|